@ 五重相対 ごじゅうのそうたい
五重相対(ごじゅうそうたい)とは、仏教及び仏教以外の一切の教えを五段階に比較相対し、次第に従浅至深(じゅうせんしじん)していく教判(きょうはん)です。
内外相対
内外(ないげ)相対(そうたい)とは、内道(ないどう=仏教)と外道(げどう=キリスト教・儒教・神道・新興宗教等)との勝劣相対をいいます。この勝劣の基準は、三世(さんぜ)の因果を説くか否(いな)かにあります。
仏教以外の教えは、いずれも三世の因果を無視したり、あるいは部分的な浅い因果しか説いていませんが、内道の仏教は、過去・現在・未来の三世を明らかにし、真の因果の道理を説いています。
したがって内外相対すれば、内道である仏教が勝れていることが明らかです。
大小相対
仏教には「大乗教(だいじょうきょう)」と「小乗教(しょうじょうきょう)」の区別があり、これを比較相対することを大小(だいしょう)相対といいます。
大乗教とは大きな乗りものを、小乗教とは小さな乗りものを意味します。これについて大聖人は、
「小乗教と申す経は世間の小船(しょうせん)のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず、設(たと)ひ二人三人は乗すれども、此岸(しがん)につ(着)けて彼岸(ひがん)へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船(だいせん)なり」(『乙御前御消息』御書895)
と仰せられ、成仏という目的地まで大勢の人を安全に連れていくには、その乗りものが大きく安全なものでなければならないことを教えられています。
小乗教は、釈尊が初期の阿含時(あごんじ)において、自己の救済のみを求める声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)のために説かれた自利(じり)の教えであり、一切衆生を成仏させるという仏教本来の目的からは遊離しています。
これに対して大乗教は、華厳(けごん)・方等(ほうどう)・般若(はんにゃ)・法華時(ほっけじ)において自己と多くの人々の救済を願う菩薩のために説かれた自利利他(りた)の教えで、小乗教には説かれていない深遠な法理が明かされています。
したがって大乗教は小乗教より勝(すぐ)れているのです。
権実相対
釈尊一代五十年の諸教には「権教(ごんきょう)」と「実教(じっきょう)」があり、これらを比較相対し、真実の教えを選び出すのが権実相対です。
権教とは、しばらく用いて後に捨てるべき仮りの教えの意で、衆生の機根(きこん)に応じて説かれた方便の教えをいい、実教とは、仏の悟りをそのまま説かれた真実の教えをいいます。
釈尊は、四十二年間にわたる説法の後、『無量義経(むりょうぎきょう)』において、
「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」(開結23)
と明かし、その後に説かれた法華経『方便品第二』に、
「要(かなら)ず当(まさ)に真実を説きたもうべし」(開結93)
と説いていることから、爾前(にぜん)の四十余年の経教は方便権教であり、法華経のみが真実の教えであることが明らかです。
この法華経においては、一切衆生を成仏せしめる一念三千の法門が顕されることによって、これまで成仏できないとされてきた二乗(声聞・縁覚)の作仏(さぶつ)が許され、また釈尊の本地である久遠実成(くおんじつじょう)が明かされました。
大聖人は、
「但(ただ)し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵(はちまんほうぞう)を勘(かんが)へたるに、小乗あり大乗あり、権教あり実教あり、顕教(けんぎょう)・密教(みっきょう)、軟語(なんご)・麁語(そご)、実語(じつご)・妄語(もうご)、正見(しょうけん)・邪見(じゃけん)等の種々の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の正言(しょうごん)なり。三世十方の諸仏の真言なり」(『開目抄』御書526)
と仰せのように、釈尊一代五十年の説法のうち、法華経こそが真実の教えであり、それ以外の経教は、法華経に導くために説かれた権(かり)の教えなのです。
本迹相対
実教である法華経は「迹門(しゃくもん)」と「本門(ほんもん)」に立て分けられ、これを比較相対し勝劣・相違を判ずることを本迹(ほんじゃく)相対といいます。
法華経二十八品のうち、『序品(じょほん)第一』から『安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四』までの前半部分は、始成正覚(しじょうしょうがく)の垂迹仏(すいじゃくぶつ)が説かれた法門なので「迹門」といい、『従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五』から『普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八』の後半部分は、久遠実成の本地仏(ほんちぶつ)が説かれた法門なので「本門」といいます。
迹門では、『方便品第二』において諸法実相(しょほうじっそう)の法理が説かれ、一切衆生を成仏せしめる一念三千の法門が明かされました。これにより、今までの爾前経(にぜんぎょう)で成仏できないとされてきた二乗(声聞・縁覚)の作仏(さぶつ)が、はじめて許されることになりました。
しかし、いまだ能説(のうせつ)の教主である釈尊が成道した根源の種子(本法)が明かされていないため、一念三千といっても理論上の法門でしかなく、二乗作仏も名のみであってその実体はありません。このことを大聖人は、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失(とが)一つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せざれば、まこと(実)の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」(『開目抄』御書536)
と示されています。
これに対して本門では、『寿量品』で釈尊の本地について、
「我(われ)本(もと)菩薩(ぼさつ)の道(どう)を行じて、成(じょう)ぜし所の寿命、今猶(なお)未(いま)だ尽きず」(開結433)
と、久遠本因妙(ほんにんみょう)の修行を示し、
「我成仏してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大いに久遠なり」(開結433)
と、本因妙の修行によって得た本果(本果妙)を明かし、また、
「我常に此の裟婆(しゃば)世界に在(あ)って、説法教化す」(開結431)
と、釈尊有縁の国土は裟婆世界(本国土妙)であることを説かれました。
このように本門では、釈尊の本地である久遠実成を仏の具体的な振る舞いのなかに本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論(さんみょうごうろん)して明かし、仏の永遠の生命をもって事(じ)の一念三千が顕されました。これにより、仏の本地身と衆生の久遠以来の関係が明らかとなり、迹門では理論のみであった衆生の得脱(とくだつ成仏)が、事実のうえに示されたのです。
この本迹の相違について大聖人は、
「本迹の相違は水火・天地の違目(いもく)なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶(なお)相違あり」(治病大小権実違目1236)
と仰せられています。
したがって本迹相対すれば、始成正覚の(しじょうしょうがく)の垂迹仏の迹門が劣(おと)り、久遠実成の本地仏の本門が勝(すぐ)れていることが明らかです。
種脱相対
種脱(しゅだつ)相対とは、法華経寿量品において釈尊の文上脱益(もんじょうだっちゃく)の仏法と、日蓮大聖人の文底下種(もんていげしゅ)仏法を比較相対する法門です。
仏法では、衆生が仏の法によって成仏を遂(と)げる過程を、種(しゅ)・熟(じゅく)・脱(だつ)の三益(さんやく)をもって説いています。種とは下種益のことで、仏になる種(たね)を衆生の心田(しんでん)に下すことをいい、熟とは熟益のことで、過去において下された仏種を成育(調熟じょうじゅく)することをいい、脱とは脱益のことで、成熟した果実を収穫(得脱)することをいいます。
前に示した文上脱益とは、久遠五百塵点劫(くおんごひゃくじんでんごう)に下種を受けた衆生が、中間(ちゅうげん)三千塵点劫を経て、爾前教・法華経迹門までの調熟の後、本門寿量品に至って得脱することをいいます。ここで得脱した衆生は、機根のうえから本已有善(ほんいうぜん)といいます。
これに対して文底下種益とは、久遠下種を受けていない衆生が、末法においてはじめて寿量品の文底に秘沈(ひちん)された南無妙法蓮華経の下種を受けて成仏することをいい、この衆生を本未有善(ほんみうぜん)といいます。
この成仏の法について大聖人は、
「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄かんじんのほんぞんしょう656)
と、釈尊在世においては寿量品を中心とした一品二半が脱益の法となり、末法においては、題目の五字が下種益の法となることを明示されています。また、
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄526)
と仰せられ、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、文底下種・本門事の一念三千の法門であると明かされています。この南無妙法蓮華経とは、久遠元初の本仏所有の法であり、すべての仏が悟りを開くために修行した根本の法なのです。
さらに大聖人は教主の相違について、
「仏は熟脱(じゅくだつ)の教主、某(それがし)は下種の法主(ほっす)なり」(本因妙抄1680)
と示され、「熟脱の教主」とは久遠実成の釈尊であり、「下種の法主」とは、末法において久遠元初の本法である妙法を下種される日蓮大聖人御自身であると明かされました。
したがって種脱相対により、末法の御本仏日蓮大聖人の南無妙法蓮華経こそ、一切衆生を救済せしめる根源の本法であることが明らかとなるのです。
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A 五重三段 ごじゅうさんだん
日蓮大聖人は『観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)』において、釈尊一代五十年の教法を従浅至深(じゅうせんしじん)して五重に括(くく)り、それぞれを「序分(じょぶん)」「正宗分(しょうしゅうぶん)」「流通分(るつうぶん)」の三段に分ける教判を立てられ、最終的に在世(ざいせ)と末法との種脱の法体(ほったい)の異なりを判じ、末法の衆生が尊崇(そんすう)すべき本尊を示されました。
「序分」とは、正意とする教法を説くための準備段階のところをいい、「正宗分」とは、まさに仏の本意とする中心の教法が説かれているところをいい、「流通分」とは、衆生を利益することを目的として、正説(正宗分)である教法を広く流布するために説かれたところをいいます。
五重三段とは、一代一経(いちだいいっきょう)三段・法華経一経三段・迹門熟益(しゃくもんじゅくやく)三段・本門脱益(ほんもんだっちゃく)三段・文底下種(もんていげしゅ)三段をいい、概説すると次のようになります。
(第一重)一代一経三段
●釈尊一代五十年の経々を三段に分けて判釈
この段では釈尊出世の本懐が法華経であることを明かします。
序分=華厳・阿含・方等・般若部の法華以前の諸経
正宗分=法華三部経(無量義経・法華経・観普賢菩薩行法経)
流通分=涅槃経等
(第二重)法華経一経三段
●第一重の正宗分を序・正・流通の三段に分けて判釈
この段では法華経の正意が二乗作仏(にじょうさぶつ)・久遠実成(くおんじつじょう)にあることを明かします。
序分=無量義経と法華経の序品第一
正宗分=方便品第二より分別功徳品第十七の十九行の偈に至るまでの十五品半
流通分=分別功徳品第十七の後半、現在の四信より普賢菩薩勧発品第二十八までに至る十一品半と観普賢菩薩行法経の一経
以上の一代一経三段と法華経一経三段は、法華経を一代説教の中心とした、概括的(がいかつてき)な構格を示していることから「一往(いちおう)・総の三段」といいます。
そして次からの迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段は、末法の衆生の尊崇すべき本尊が明かされていくことから「再往(さいおう)・別の三段」といいます。
(第三重)迹門熟益三段
●法華三部経の内、無量義経と法華経迹門を三段に分けて判釈
この段では迹門熟益の本尊として、仏は始成正覚(しじょうしょうがく)の応即法身を示し、法は二乗作仏・百界千如が明かされます。
序分=無量義経と法華経の序品第一
正宗分=方便品第二より授学無学人記品第九までの八品
流通分=法師品第十より安楽行品第十四までの五品
(第四重)本門脱益三段
●法華三部経の内、法華経本門と観普賢菩薩行法経を三段に分けて判釈
この段では本門脱益の本尊として、仏は久遠実成の仏身を示し、法は本因妙(ほんにんみょう)・本果妙・本国土妙の三妙合論(さんみょうごうろん)のうえにおける一念三千を明かされます。
序分=従地涌出品第十五の前半品
正宗分=従地涌出品第十五の略開近顕遠の文よりの後半品、寿量品第十六の広開近顕遠の一品、分別功徳品第十七の前半品十九行の偈までの一品二半
流通分=分別功徳品第十七の後半品現在の四信より、普賢菩薩勧発品第二十八までの十一品半と、観普賢菩薩行法経の一経
以上の四重の判釈により、釈尊一代仏教の中心は法華経の本門の一品二半にあることが明かされました。さらに大聖人は、末法流通の本尊を示すために寿量文底の意に約して、第五重の三段を立てられています。
(第五重)文底下種三段
●文底下種の法門より、仏教の一切を括って三段に分けて判釈
この段では末法の一切衆生が観心成仏すべき本尊として、仏は名字凡身(みょうじぼんしん)の下種の仏を示し、法は文底下種の妙法蓮華経であることを明かします。
序分=文底体外(たいげ)の辺における釈尊一代五十年の諸経、並びに十方三世諸仏の微塵の経々
正宗分=従地涌出品第十五の動執生疑より、分別功徳品第十七の十九行の偈に至るまでの一品二半(広開近顕遠の一品二半、我が内証の寿量品、すなわち文底能詮の寿量品の二千余字)
流通分=文底体内の辺におけるる釈尊一代五十年の諸経、並びに十方三世諸仏の微塵の経々(流通の正体は、文底所詮の下種本因妙の妙法蓮華経)
ここで示された文底内証(ないしょう)の寿量品たる「一品二半」は、第四重の本門脱益三段の正宗分たる「一品二半」(脱益)とは名は同じであっても、その配立(はいりゅう)と意義内容は異なります。
すなわち、脱益の一品二半は、『涌出品』の略開近顕遠(りゃっかいごんけんのん)からの一品二半であるのに対して、内証の寿量品たる一品二半は、『涌出品』の動執生疑(どうしゅうしょうぎ)からの広開近顕遠の一品二半なのです。また、脱益の一品二半が久遠本果を説き、仏の因位の修行と果徳と所住の国土とに約して、事の一念三千を説示したのに対し、内証の寿量品の一品二半は能(よ)く久遠元初の本因名字の妙法蓮華経を説き詮(あらわ)すのです。
この所詮の法体(ほったい)である南無妙法蓮華経こそが、『神力品』で上行菩薩に付嘱された末法流通の正体なのです。すなわち、末法流通の観心の本尊の実体とは、外用(げゆう)上行菩薩・内証久遠元初自受用報身如来の再誕日蓮大聖人によって顕された人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊となるのです。
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B 三 証 さんしょう
三証とは、日蓮大聖人が宗教の正邪を見極めるために用いられた判定基準のことで、文証(もんしょう)【証文】・理証(りしょう)【道理】・現証(げんしょう)【実証】の三つをいいます。
文証とは文献上の証拠をいい、その教えが仏の教説である経典を根拠としているかどうかで正邪を判断することです。『涅槃経』には、「若(も)し仏の所説(しょせつ)に随(したが)わざる者有らば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」とあり、大聖人は、
「経文に明らかならんを用ひよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄389)
と文証の重要性を説かれ、文証のないものを用いてはならないと示されています。
理証とは、その宗教の教えや主張が道理に適(かな)っているかどうかを基準として正邪を判断することです。その宗教が自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻(はたん)をきたします。それとは逆に、正しい道理に基づく宗教は、いかなる力をもってしても崩すことはできないのであり、これについて大聖人は、
「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事1179)
と仰せです。正しい宗教は普遍(ふへん)妥当性(だとうせい)を有するものでなければならず、この一大道理に貫かれた教えこそ法華経であり、その根本の法が大聖人の仏法なのです。
現証とは現実の証拠をいい、その宗教を信仰して現れる実証をもって正邪を判断することです。この現証について大聖人は、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三藏祈雨事874)
と仰せられ、三証の中でも特に現証の大切さを説かれています。
正しい宗教には、因果の道理によって正しい現証があるのであり、邪(よこしま)な教えを信ずれば悪果を招くことになります。特に新興宗教などは現世利益を誇大(こだい)に宣伝していますが、これらは理証も文証もない、その教祖の思いつきなどによるものであり、そのような邪教を信ずれば、ついにはその身を滅ぼすことになります。これについて大聖人は、
「法の験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其の身も檀那(だんな)も安穏(あんのん)なるべからず」(諌暁八幡抄1531)
と仰せられ、邪宗教の現罰の相を教えられています。
これに対し、大聖人の仏法でいう現証とは、正しい道理(理証)と経文(文証)に裏打ちされたもので、現実の身に成仏という最高の境界を得るという即身成仏に極まります。
このように、文証・理証・現証の三証がともに整足していることが正しい宗教の証明となるのです。
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C 三種教相と第三法門
さんしゅのきょうそうとだいさんほうもん
三種の教相とは、天台大師が『法華玄義』卷一に「教相を三と為(な)す、一に根性(こんじょう)の融(ゆう)不融(ふゆう)の相、二には化導(けどう)の始終(しじゅう)不始終(ふしじゅう)の相、三には師弟の遠近(おんごん)不遠近(ふおんごん)の相」と説いたもので、これによって法華経が他経より勝(すぐ)れていることを明かしています。
「根性の融不融の相」とは、衆生の機根が差別なく融合しているか否(いな)かによって、法華経迹門(しゃくもん)と法華経以前の経である爾前経(にぜんぎょう)の勝劣を判ずるものです。
爾前経では、衆生の機根が未熟のゆえに声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)の三乗に区別され、仏の命と融合することがないので「不融」であり、法華経では、『方便品』に至って衆生の機根が熟し、三乗を開顕(かいけん)して一仏乗に会入(えにゅう)するので、根性が「融」となります。このゆえに法華経が勝れていると判じるのです。
「化導の始終不始終の相」とは、衆生に対する下種益(げしゅやく)・熟益(じゅくやく)・脱益(だっちゃく)の化導の始終が明かされているか否かによって、法華経迹門と爾前経の勝劣を判ずるものです。
爾前経では衆生に対する釈尊の種熟脱(しゅじゅくだつ)の化導が説かれていないので「不始終」であり、法華経では、『化城喩品(けじょうゆほん)』における三千塵点劫(じんでんごう)の大通結縁(だいつうけちえん)の下種益と、中間(ちゅうげん)・爾前の熟益、さらには迹門における脱益が明かされるので「始終」となり、このゆえに法華経迹門が勝れると判じるのです。
「師弟の遠近不遠近の相」とは、仏(師)と衆生(弟子)の久遠以来の関係が明かされているか否かによって、法華経本門と爾前迹門との勝劣を判ずるものです。
爾前迹門では、釈尊はインドで誕生し菩提樹下(ぼだいじゅげ)で成道した始成正覚(しじょうしょうがく)という仏の立場であって、仏の本地身(ほんちしん)と衆生の久遠以来の関係を明らかにされていません。したがって爾前迹門の教えは「不遠近」となります。
これに対し、法華経本門の『寿量品』では、釈尊は久遠の本地を開顕し、久遠以来の師弟関係を明らかにされました。これによって本門寿量品の教えは「遠近」となり、このゆえに法華経本門勝れていると判じられるのです。
しかし、これら三種の教相は大聖人の法門から見れば、一往(いちおう)【当分(とうぶん)】の義で、再往(さいおう)【跨節(かせつ)】の深義を明かしていません。
すなわち天台の「根性の融不融の相」と「化導の始終不始終の相」は、大聖人の第一法門【権実(ごんじつ)相対】にすぎず、「師弟の遠近不遠近の相」は、第二法門【本迹(ほんじゃく)相対】にすぎないのです。
大聖人は、
「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗(ほぼ)夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候」(常忍抄1284)
と仰せになり、脱益を当分、下種を跨節とする種脱(しゅだつ)相対を「第三の法門」とされ、ここに大聖人の本意があることを示されています。
すなわち「第三の法門」とは、仏種を持たない本未有善(ほんみうぜん)の末法の衆生が、下種の教主・御本仏日蓮大聖人の南無妙法蓮華経によって済度されることを明かしたものなのです。
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D 一念三千 いちねんさんぜん
一念三千とは、一念の心に三千の諸法を具足することをいいます。
この法理は、天台大師が法華経『方便品第二』に示されている十如実相(じゅうにょじっそう)の文をもとにして『摩訶止観(まかしかん)』で体系化して説いたものです。
一念三千の構成を挙げると、刹那(せつな)の一念に十の法界があり、その十界各々に十界がそなわって、百界となり、さらに十如是(じゅうにょぜ)がそなわって千如是となり、千如是に三世間がそなわり三千世間となります。
十界
十界とは、十法界ともいい、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩・仏の十種類の境界(きょうがい)をいいます。ここでいう境界とは、他と異なるある領域の状態をいいます。
1)地獄界=瞋(いかり)と苦悩(くのう)の境界。
2)餓鬼界=飢渇(けかち)と貧欲(とんよく)から起こる満たされな
い境界。
3)畜生界=理性を欠き、癡(おろ)かにして本能的欲求によって
行動する境界。
4)修羅界=常に他に勝ることを思い、怒りへつらう境界。
5)人間界=人界ともいい、穏やかで落ち着いた境界。
6)天上界=天界ともいい、永続性のない快楽の境界。
7)声聞界=仏の法を聞き、煩悩(ぼんのう)を断尽(だんじん)して
小乗の悟りを得る境界。
8)縁覚界=独覚(どっかく)ともいい、理を観じ自然現象を縁とし
て小乗の悟りを得る境界。
9)菩薩界=自らの悟りを求めるとともに、衆生を救済しようとす
る境界。
10)仏
界=一切諸法の真実の相に通達(つうだつ)した尊極無
上(そんごくむじょう)の大慈悲の境界。
この十界に、それぞれ十界がそなわって百界となり、これによって今まで成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗はもとより、十界すべての衆生に仏界がそなわることが明かされたのです。
十如是(じゅうにょぜ)
法華経『方便品第二』に、
「唯(ただ)仏と仏とのみ、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相(そう)、如是性(しょう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是縁(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、如是本末究竟等(ほんまっくきょうとう)なり」(開結89)
とあります。これは十界それぞれの境界における具体的な生命活動として、十の働きがあるということです。
1)如是相=外面に現れた姿。
2)如是性=内面の性質。
3)如是体=事物の実体。
4)如是力=事物に内在している力。
5)如是作=事物に内在する力が、他に向かって作用を及ぼす
こと。
6)如是因=果を招く内因。
7)如是縁=因によって果を招くときに働く外界の助縁。
8)如是果=因と縁との和合により生ずる結果。
9)如是報=果によって受けるところの報い。
10)如是本末究竟等=はじめの「相」を本(もと)とし、終わりの「報」を末(まつ)として、この九如是が常に究竟し、一体となって等しい状態であること。
三世間
世間とは差別の義をいい、これに五陰(ごおん)・衆生・国土の三種があります。
1)五陰世間=五陰とは色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五つをいい、色とは身体及び物質、受とは感受作用、想とは心に浮かぶ表象(ひょうしょう)作用、行とは意志あるいは欲求、識とは認識作用のこと。すなわち、色心の二法の差別相をいう。
2)衆生世間=五陰によって形成された衆生の生命に十界の差別があること。すなわち正報(しょうほう→生を営む主体)の差別相をいう。
3)国土世間=十界の衆生の住所に、それぞれの差別があること。すなわち依報(えほう→正報の依りどころとなる国土・環境)の差別相をいう。
これら十界・十如是・三世間によって構成される一念三千は、迹門・本門・文底(もんてい)の立て分けがあります。
迹門の一念三千
迹門の一念三千は、『方便品第二』に説かれた「諸法実相」の文により、凡夫(ぼんぶ)の己心(こしん)にそなわる三千の妙理を明かされたものであり、十界互具(ごぐ)の理を観ずるので「理の一念三千」といいます。
この理の一念三千を説く仏は始成正覚(しじょうしょうがく)の仏であり、本門の仏に対すれば、いまだ真実の仏ではありません。したがって日蓮大聖人は、迹門に説かれる一念三千は有名無実(うみょうむじつ)であり、熟益(じゅくやく)の教法と判ぜられています。
本門の一念三千
本門の一念三千は、『如来寿量品第十六』に至って久遠実成(くおんじつじょう)が説かれ、釈尊の本因(ほんにん)・本果・本国土に約して事実のうえで仏の三世常住(さんぜじょうじゅう)が明かされたので、「事の一念三千」といいます。
これによって釈尊在世の衆生は仏の常住の化導を聴聞(ちょうもん)して、仏の永遠の生命と自らの生命とが同体であることを覚知(かくち)することができました。これを大聖人は釈尊仏法の極理(ごくり)とし、脱益(だっちゃく)の教法と決判(けっぱん)されています。
文底の一念三千
文底の一念三千とは、大聖人が、
「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文(もん)の底にしづめたり」(開目抄526)
と仰せられるように、寿量品の文底に秘沈(ひちん)された法門であり、久遠元初の御本仏が即座開悟(そくざかいご)された南無妙法蓮華経のことをいいます。この南無妙法蓮華経は、御本仏として末法に出現された日蓮大聖人が所有されている文底独一本門(どくいちほんもん)・人法一箇(にんぽういっか)の事の一念三千の実体です。
この文底・事の一念三千を大聖人は、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅(だいまんだら)なり」(草木成仏口決523)
と仰せのように、末法の衆生を済度するため究竟の法体として本門戒壇(かいだん)の大御本尊を建立されました。この大御本尊こそ日蓮大聖人の御当体であり、末法の衆生は、この大御本尊を信じ奉り南無妙法蓮華経と唱えるとき、仏界即九界・九界即仏界、境智冥合(きょうちみょうごう)して即身成仏することができるのです。
したがって前の本迹二門の一念三千は、日蓮大聖人の文底・事の一念三千に対すれば、ともに文上・理の一念三千となります。
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E 久遠元初 くおんがんじょ
久遠(くおん)とは、久しく遠い過去のことで、仏の寿命の長遠なることを意味し、元初(がんじょ)とは、時空を超越した一切の根源をいい、本仏の悟りの境地を意味します。
久遠の意義については、法華経迹門(しゃくもん)・本門・文底(もんてい)にそれぞれの相違があります。
まず、迹門では『化城喩品第七』において、三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)の久遠に大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が法華経を説き、さらにその滅後に十六人の王子たちがまた法華経を説いて【大通覆講(だいつうふっこう)】、衆生と結縁したことが明かされており、その十六番目の王子はインド応誕(おうたん)の釈尊の前身であると説かれています。この宿世の因縁をとおして釈尊は在世における下根の衆生を得脱させました。
三千塵点劫という時の長さは、三千大千世界【日月や須弥山(しゅみせん)などの広がりを一世界とし、その千倍を小千世界、その千倍を中千世界、さらにその千倍の世界を大千世界とする世界観】の国土を碎(くだ)いて塵(ちり)とし、東方に向かって千の国土をすぎるたびに一微塵(いちみじん)を落として行き、その塵が尽きたときにこれらのすべての国土をさらに塵にし、その一塵を一劫(いっこう)とする無量無辺の長い時間を指しています。
さらに、釈尊は本門の『如来寿量品第十六』において五百塵点劫【五百千万億那由他(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)】という久遠に成道したことを説き、その本地を顕しました。これを久遠実成(じつじょう)といいます。この五百塵点劫は、迹門で明かされた三千塵点劫という時でさえも、昨日に思えるほどのさらなる長遠の過去であると説かれています。
これらの三千塵点劫・五百塵点劫は、ともに釈尊の法華経文上(もんじょう)において説かれた久遠です。
これに対して日蓮大聖人は法華経文底の法門のうえから、「久遠元初」を明かされました。この久遠元初は、本門文上の久遠五百塵点劫を遥(はる)かに遡(さかのぼ)った当初を指すもので、大聖人は、
「釈迦如来(しゃかにょらい)五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地(ち)水(すい)火(か)風(ふう)空(くう)なりと知ろしめして即座(そくざ)に悟りを開きたまひき」(総勘文抄1419)
と仰せられています。この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のことで、このときの「釈迦如来」とは凡夫時に即座開悟された法即人(ほうそくにん)の本仏たる自受用報身(じじゅゆうほうしん)如来であり、そのときの法は人即法の本因下種(ほんにんげしゅ)の「南無妙法蓮華経」です。
さらに大聖人は、
「久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは介爾(けに)計(ばか)りも違(たが)はざる勝劣なり」(百六箇抄1696)
と仰せられ、仏の化導のうえから久遠元初と末法が同一であることを説かれています。
さらに第二十六世日寛上人は、
「末法今時(こんじ)は全(まった)く是れ久遠元初なり」(当流行事抄『六巻抄』199)
と示されており、文底の法門より見れば、末法の今日において弘通する法も仏も、それを受ける衆生の機根も、久遠元初のときとまったく同じであることから、久遠即末法・末法即久遠といわれます。
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F 三類の強敵 さんるいのごうてき
三類の強敵とは、滅後末法の濁悪世(じょくあくせ)において法華経を誹謗(ひぼう)したり、法華経の行者を迫害するために現れる「俗衆(ぞくしゅう)増上慢(ぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僣聖(せんしょう)増上慢」の三種類の邪悪の者をいい、これは法華経『勧持品(かんじほん)第十三』の二十行の偈文(げもん)に説かれています。
第一の俗衆増上慢とは、
「諸(もろもろ)の無智の人の 悪口罵詈(あっくめり)し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者有らん」(開結375)
とあるように、法華経の行者を悪口罵詈し、刀杖等をもって害を加える、仏法に無智な在家の人々(俗衆)のことです。
第二の道門増上慢とは、
「悪世の中の比丘(びく)は 邪智(じゃち)にして心諂曲(てんごく)に 未(いま)だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い 我慢の心充満せん」(開結375)
とあるように、邪智で歪(ゆが)んだ心を持ち、いまだ得ていない仏道を得たと称し、慢心を起こして法華経の行者を迫害する宗教者(道門)のことです。
第三の僣聖増上慢とは、
「世に恭敬(くぎょう)せらるること 六通の羅漢(らかん)の如くならん 是の人悪心を懐き 常に世俗の事(じ)を念(おも)い(乃至)常に大衆(だいしゅう)の中に在(あ)って 我等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門(ばらもん)居士(こじ) 及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて」(開結376)
とあるように、世の中から尊敬を受け、聖者のように思われながらも、内実は悪心を懐いて、法華経の行者を誹謗・迫害する宗教者(僣聖)や権力者で、この増上慢は三類の中でもっとも強大な敵人です。
大聖人は、
「法華経の第五の卷、勧持品の二十行の偈は(中略)但日蓮一人これをよめり」(開目抄541)
と仰せられているように、御一代をとおして伊豆流罪(るざい)・小松原法難・竜口(たつのくち)法難・佐渡流罪等の大小さまざまな法難に遭(あ)われ、『勧持品』の二十行の偈文をことごとく身読(しんどく)されました。
さらに大聖人は、
「諸経は無得道堕地獄(だじごく)の根源、法華経独(ひと)り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧(ごらん)ぜよ。三類の強敵来(き)たらん事は疑ひ無し」(如説修行抄673)
と仰せられているように、正法弘通には必ず三類の強敵が競い起こることを教示され、門下一同の覚悟をうながされています。
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G 三障四魔 さんしょうしま
三障四魔とは、仏道修行を妨げ悪道に至らしめる三種の障害【煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)】と四種の魔【煩悩魔・陰魔(おんま)・死魔(しま)・天子魔(てんじま)】をいいます。
日蓮大聖人は三障について、
「煩悩障と申すは貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)等によりて障礙(しょうげ)出来(しゅったい)すべし。業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障礙出来すべし」(兄弟抄986)
と仰せのように、「煩悩障」とは、貪・瞋・癡などの煩悩によって仏道修行が妨げられる障りをいい、「業障」とは、五逆・十悪などの業によって起こる障りで、妻子など身近な人が仏道修行を妨げることをいいます。そして「報障」とは、過去の正法誹謗(ひぼう)などの悪業の報いとして受ける障りをいい、国王・父母などの大きな力のあるものが仏道修行を妨げる姿となって現れてくることです。
次に四魔の「煩悩魔」とは、煩悩が心を悩乱させ、仏道修行者が菩提(ぼだい)を得ようとする智慧(ちえ)の命を奪う魔をいい、「陰魔」とは五陰魔ともいい、人間の肉体と精神を構成する五陰【色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)】の調和を乱す病気など、仏道修行に障害をなす魔のことで、「死魔」とは、仏道修行者が死によって修行を続けることができなくなることや、身近な人の死などで正法への疑いを起こさせる魔をいいます。「天子魔」とは、欲界の第六天の他化自在天(たけじざいてん)に居住する魔王【第六天の魔王】のことで、権力者などの身に入り、修行者を惑(まど)わせて仏道を妨害する魔です。この魔は一切の障魔の根源となります。
大聖人はこれらの三障四魔の起こる原因について、
「此の法門を申すには必ず魔出来(しゅったい)すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の卷に云はく『行解(ぎょうげ)既(すで)に勤めぬれば三障四魔紛然(ふんぜん)として競ひ起こる』」(兄弟抄986)
と仰せられています。すなわち、大聖人の仏法が正しければこそ、それを破ろうとして三障四魔が競い起こり、仏道修行を妨げようとするのです。大聖人が、
「凡夫(ぼんぶ)の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事1184)
と教示されているように、障魔が起きたときこそ成仏という大利益を得るときと心得て、さらなる強い確信をもって精進すべきなのです。
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H 異体同心 いたいどうしん
異体同心とは、身体はそれぞれ別であっても、信心の志を同じくしていくことをいいます。
日蓮大聖人は、
「総(そう)じて日蓮が弟子檀那等自他(じた)彼此(ひし)の心なく、水魚(すいぎょ)の思ひを成(な)して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈(けちみゃく)とは云ふなり」(生死一大事血脈抄514)
と仰せられ、大聖人の仏法を信仰する僧俗は心を一つにして自行(じぎょう)化他(けた)の信心に精進していくことが大事であると示されています。
また大聖人は、異体同心することの大切さについて、
「異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事(しょじ)叶(かな)ふ事なし」(異体同心事1389)
と示されています。世間においても、一つの事をなす場合、互いが心を合わせて取り組まなければ、成功に導くことはできません。ましてや大聖人の御遺命(ごゆいめい)である広宣流布という一代偉業をなし遂げるためには、日蓮正宗の僧俗全体が異体同心しなければならないのはいうまでもないことです。このことから大聖人は、同信者の中に異心の者がいる場合には、「諸事叶ふ事なし」として、その異心をかたく誡(いまし)められています。そのうえで、
「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし」(異体同心事1389)
と仰せられ、いかに少数の人であっても、異体同心して折伏弘教に精進していくならば、広宣流布は必ず達成できることを示されています。
大聖人御入滅後においては、大聖人の仏法の深義を相伝される御法主上人の御指南に随順(ずいじゅん)し、広宣流布達成に向けて精進していくことが真の異体同心となるのです。
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I 地涌の菩薩 じゆのぼさつ
地涌の菩薩とは、虚空会(こくうえ)における法華経の説法のなか、『従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五』より『嘱累品(ぞくるいほん)第二十二』までの八品において釈尊の久遠(くおん)の開顕(かいけん)を助け、末法における法華弘通の付嘱を受けるために出現した六万恒河沙(ろくまんごうがしゃ)の菩薩をいい、大地から涌現したところから「地涌の菩薩」と称されます。
釈尊は、法華経迹門(しゃくもん)『法師品(ほっしほん)第十』以後において、滅後末法における法華経弘通の重要さと功徳の深重を説かれ、それを受けて迹化(しゃっけ)・他方の菩薩らが仏滅後における弘教をさせてほしいと請(こ)い願いました。これに対して釈尊は滅後弘教の困難さを示され、『涌出品第十五』において「止(や)みね、善男子(ぜんなんし)」(開結408)と、その請願を退けて大地より地涌の菩薩を召(め)し出(いだ)しました。これらの菩薩衆は釈尊の久遠の弟子【本化の菩薩】であり、仏と同じ三十二相の相好をそなえていました。
続いて釈尊は、『寿量品第十六』を説いて久遠の本地(ほんち)を明かし、『神力品第二十一』に至って上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)等の地涌の菩薩に、法華経の肝要を四句に括(くく)って付嘱し、末法において法華経を弘通することを託(たく)しました。これを「結要付嘱(けっちょうふぞく)」といいます。この地涌の菩薩の上首(じょうしゅ)【筆頭】は上行菩薩をはじめとする無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)の四大菩薩で、これに連なる菩薩衆は数えきれないほどであると説かれています。
『神力品』には、
「日月の光明の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く斯(こ)の人(ひと)世間に行じて能く衆生の闇を滅し」(開結516)
と説かれ、滅後末法に出現する上行菩薩は凡夫(ぼんぶ)の姿をして現れると明かされています。その予証(よしょう)どおり末法に凡夫の姿をもって出現され、衆生救済のため経文に示された大難を受けながらも、妙法を弘教された方は日蓮大聖人をおいてほかにはいません。すなわち、
「上行菩薩に譲(ゆず)り給(たま)ひし題目の五字を日蓮粗(ほぼ)ひろめ申すなり。此(これ)即(すなわ)ち上行菩薩の御(おん)使(つか)ひか」(四条金吾殿御返事599)
「上行菩薩等の末法に出現して、南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり。しかるに先(ま)づ日蓮一人出来(しゅったい)す」(上野殿御返事1361)
と、御自身こそ上行菩薩の再誕であることを明かされています。
さらに大聖人は、
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり」(諸法実相抄666)
と、末法の今日において正法を信受し弘通する僧俗は、まさに地涌の菩薩の眷属(けんぞく)と仰せられています。
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J 主師親の三徳 しゅししんのさんとく
主(しゅ)・師(し)・親(しん)の三徳とは、仏がそなえている三種の徳のことです。
日蓮大聖人は、この三徳について、
「一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべき者三つあり。所謂(いわゆる)、主・師・親これなり」(開目抄523)
と、すべての人々が尊敬すべきものとして示されています。
主徳とは主人の徳で人々を守護する働きをいい、師徳とは師匠の徳で衆生を正しい道に導く働きをいい、親徳とは親の徳で衆生を慈愛する働きのことをいいます。
これらの一分の徳をそなえた人は歴史上にも多く見られますが、大聖人は、
「かくのごとく巧(たく)みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。(中略)但(ただ)現在計りしれるににたり」(開目抄524)
と、三世の因果に通達しなければ真実の三徳とはならないことを教示されています。
釈尊は『譬喩品(ひゆほん)第三』に、
「今此(こ)の三界は 皆是(こ)れ我が有(う)なり【主徳】 其(そ)の中の衆生 悉(ことごと)く是れ吾(わ)が子(こ)なり【親徳】 而(しか)も今此の処(ところ)諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し 唯(ただ)我一人のみ 能(よ)く救護(くご)を為(な)す【師徳】」(開結168)
と、仏こそが一切の人々を救済する三徳を兼ねそなえていると説かれています。
しかし、三徳をそなえているといっても、インドの釈尊は熟脱(じゅくだつ)の教主であり、その教えは滅後二千年間までの正法・像法時代の衆生のためのもので、末法今日の衆生を救済することはできません。
末法の衆生を済度する仏について大聖人は、
「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり(中略)三世常恒(じょうごう)の日蓮は今此三界(こんしさんがい)の主なり」(産湯相承事1710)
と説かれ、また人(にん)本尊開顕の書たる『開目抄』においては、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(577)
と、日蓮大聖人御自身こそ下種の教主、末法の主・師・親三徳を兼備(けんび)する仏であることを明かされています。
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K 仏・法・僧の三宝 ぶっぽうそうのさんぼう
仏教では、一切衆生が尊敬し供養し帰依(きえ)すべき対境として三宝が立てられます。三宝とは、仏宝・法宝・僧宝のことで、衆生を救い世を清浄(しょうじょう)に導くところから「宝」と崇められているのです。
「仏」とは真実の法を覚知し衆生を救済される教主をいい、「法」とは仏の悟りと慈悲に基づいて説かれた教えであり、「僧」とはその仏法を後世に正しく護り伝えていく僧侶をいいます。
この三宝の立て方は、教法によってそれぞれ異なりがあります。釈尊の仏法では、小乗・権大乘・迹門・本門等にそれぞれ異なった三宝が説かれていますが、これらは釈尊によって下種(げしゅ)された衆生【本已有善(ほんいうぜん)】を熟脱させるためのものであり、末法の衆生を救済する三宝とはなりません。
仏種を植えられていない末法の衆生【本未有善】
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ーつづくー |