仏教では、仏法僧の三宝に帰依することを教えています。
三宝とは、この世に出現した仏と、仏が説いた法と、その法を伝える僧をいいます。この三つがそろって、はじめて、衆生は仏法の功徳に浴することができるのです。ですから、仏法僧を「宝」として崇めるのです。
日蓮正宗では次ぎのように三宝を立てています。
仏宝・・・・日蓮大聖人
「大聖人」という呼び方は、
「仏・世尊(せそん)は実語(じつご)の人なり、故に聖人(しょうにん)・大人(だいにん)と号す」(開目抄)
とおおせられるように、仏の別号である「大人」と「聖人」を合わせた名称です。また仏は主師親(しゅししん)の三徳を具えた方をいい、御自ら
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ末法の人々を庇護(ひご)し(主の徳)、教導し(師の徳)、養育される(親の徳)という三徳を具えた御本仏であることを明かされています。
法宝・・・・本門戒壇の大御本尊
日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くため、仏としての悟(さと)りを御本尊として顕(あら)わされました。その御本尊とは、出世の本懐(ほんがい)として弘安(こうあん)2年(1279)10月12日に顕わされた、「本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊」です。
「戒壇」とは、御本尊を安置する処(ところ)をいいます。日蓮大聖人は、広宣流布(こうせんるふ)の暁(あかつき)に全世界の人々が参詣し、罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)して成仏を願うために本門の戒壇を建立するよう御遺命されています。この戒壇に安置される根源の御本尊ですから「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。
日蓮正宗では、この大御本尊を法の宝として崇(あが)めます。
僧宝・・・・第二祖日興上人
日蓮大聖人は、
「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」(四恩抄)
と仰せのように、仏の徳とその教えは、僧侶によって後世(こうせい)まで伝えられます。
日蓮大聖人の仏法は、日興上人をはじめ血脈相承(けちみゃくそうじょう)を受けられた御歴代上人によって、末法万年にわたり、すべての人々に正しく流れ通うのです。
このゆえに、日興上人を随一(ずいいち)として、総本山の御歴代上人を僧宝として崇めるのです。特に、その時代や衆生(しゅじょう)の機根(きこん)に応じて日蓮大聖人の仏法を教導(きょうどう)される当代の御法主上人に随順(ずいじゅん)することが、正しく僧宝を崇めることになります。
なお広い意味では、宗祖日蓮大聖人の血脈(けちみゃく)に連(つら)なる日蓮正宗の僧侶も僧宝に含まれます。
私たちは、日蓮正宗のみに立てられる正しい三宝を敬(うやま)い、信仰に励んでいくことが大切です。
日蓮大聖人は、「自行化他(じぎょうけた)にわたる信心」を教えられています。
「自行」とは、自分が利益(りやく)を得るための勤行や唱題をいい、
「化他行」とは、正法を知らない人々に対して、不幸の原因が誤った宗教になることを教え、日蓮大聖人の仏法に導くことです。この化他行を折伏(しゃくぶく)といいます。
この自行と化他行は、修行の根幹であり、これらをともに実践してこそ、成仏という大きな功徳が得られるのです。
私たちは、ゆるぎない幸せと、平和な社会を築くために、日々の勤行・唱題に勤めるとともに折伏に励んでいきましょう。
謗法とは、日蓮大聖人の教えに背(そむ)くことをいい、災難や不幸の原因となり、成仏の妨(さまた)げとなるものです。
私たちが信仰していくなかでいましめなければならないことは、他の宗教に与同(よどう)し、お守りや神札(かみふだ)を受けたり、他宗への寄付や布施(ふせ)をすることなどの謗法です。また、仏道修行を怠(なま)けたり、同志に対して恨(うら)みや妬(ねた)みの心を抱いたり悪口をいうことも謗法になります。
せっかく正法の信仰に入りながら謗法をおかすことは、正しい信仰の妨げとなり、功徳善根を消してしまうことになります。それは例(たと)えば薬と毒を一緒に飲むようなもので、薬の効き目が失われるだけでなく、かえって毒によって苦しむことになります。
私たちは、謗法を寄せつけない、また自らも謗法を行わないという毅然(きぜん)とした心をもって、清浄(しょうじょう)な信仰に勤めましょう。
総本山大石寺は、本門戒壇の大御本尊が厳護(げんご)され、日蓮大聖人の血脈(けちみゃく)が伝えられている仏法の根源の霊地(れいち)です。
その末寺も、御本尊が安置され、仏法僧の三宝が備わった法城であり、僧俗が和合して仏法を学び、日蓮大聖人の教えを弘めるための重要な道場なのです。
なお末寺には、御法主上人の任命を受けた住職や主管が法華講員に対して信心の指導に当たっています。
私たちは、信心修行の道場である寺院へ常に参詣し、指導教師である住職・主管の指導のもと信行に励むことが大切です。
法華講員はお互いに日蓮大聖人の仏法を信仰し、その教えを弘めていく信心の同志です。
日蓮大聖人は、
「信心の同志が力をあわせて努力すれば、いかなる大事をもなしとげ、困難をも克服できる」(意訳・異体同心事)
と、異体同心(いたいどうしん)の大切さを教えられています。
日蓮正宗の信仰において、同信の人たちが団結し、互いに励まし合い、助け合っていくことが何よりも大切な心構えです。
これに反して、同志の陰口(かげぐち)を言ったり、些細(ささい)な欠点をあげつらったりすることは、これまで積んだ功徳を失うばかりか、信心の組織を乱す大きな罪となりますから、厳に慎(つつし)まなければなりません。
私たちは、自己の成仏を願い、広宣流布を推進するためにも、異体同心の精神をもって信心に励んでいきましょう。
日蓮正宗の信仰は、けっして現実の生活からかけ離れたものではありません。
日蓮大聖人は、
「法華経を信仰する人は、世間の道理をも弁(わきま)えることができる」(意訳・観心本尊抄)
と教えられています。
私たちは、日蓮大聖人の仏法を信仰することによって、正しい人生観をもち、良識ある社会人として人格を磨いていくことができるのです。
信仰によって培(つちか)われる慈悲の心は、他人に対する思いやりとなり、仏を敬う真心は誠実な人格となってあらわれます。これらの思いやりと誠実な人格は、おのずと周囲からの信頼を生むことになります。
私たち法華講員は、信仰によって福徳を積むとともに人格を磨き、社会から信頼される人になるように精進しましょう。
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